BH 1
――まさか、あんなことをしてしまうとは。
ブルースはバットマン・スーツを
バットマンスーツの下には、機能と防御に優れたアンダーウェアを着用しているが、それが濡れている。
汗だけではない……。
バットマンではなく、一人の善良な男に戻ったブルースにとっては、淫猥な残滓とともに、洗い流してしまいたい記憶だった。
それでも身体の内に、また繰り返すであろう確信に満ちた火種が眠り、ブルースの良心を苛んだ。
事の起こりは、またもジョーカーだった。
ゴッサムシティを一時期混乱に陥れた、神経ガスがマフィアによって再び製造されており、バットマンが摘発に急行した。
が、既にマフィアの研究員たちは顔を切られた一人を残して、殺され、生き残った男は憎むべきジョーカーの名を口にした。
バットマンは歯噛みした。ジョーカーは最近アーカムから逃亡した。新任の精神科医を篭絡して……。
捜索の最中、一本の電話が入った――バットマンの携帯に。
声は、スケアクロウのようだったが、定かではない。
『そこにいる獲物は、あんたのもんだ。好きにしろよ』
甘く見るな、言い返す前に電話は切れた。
罠であろう、と思いつつも、出かけていった先は、廃墟同然の大きな屋敷だった。
中で人の気配がする。
バットマンへの生贄として、情報を安易に売って来られた使い捨ての、哀れなお仲間がいるのか?
いや、仲間のフリを強制的にさせた人質か、爆弾を仕掛けられたお仲間かも知れん。
覗きこむと、女が、シャワーを浴びて出てきたところだった。白い絹の丈が短いバスローブを着ていたので、女だと分かった。
洗われたばかりの長い素直な金髪は生乾きで背中に垂れ、真っ青な色をした目は大きい。
卵形の顔は、イカれた女道化師のメイクは落とされ、ピンク色の肌をしていた。
トルソーが二股に分かれた帽子、飾り襟のついた赤と黒の女ピエロの衣装を着せられて、何もない部屋の真ん中になかったら、分からなかっただろう。
この娘が、まさかジョーカーの相棒であり愛人、ハーレイ・クインだとは。
(愛人を見捨てたわけか、ジョーカーらしい)
ここは元は廃屋らしく、盗電している部分を除いては、電気もろくに通っていないようだ。臨時の隠れ家なのだろう。キャンドルが幾つも置かれ、それで照らしてある。
部屋は住んでいる人間の精神状態を如実に表す。
吹き抜けの広間は、ところどころ壁紙や床が剥げ、埃が隅に溜まっている。
広間の左端に、突如として一台の古びた天蓋付のベッド、ベッドの近くにはポップなアメコミのイラストが貼り付けられたキャリーバックがあり、バックからは衣類が溢れて散らかっている。
ワン・ドアの小型冷蔵庫、それにキャンドル。そして広間の中央に、女道化師の衣装を飾ったトルソーだけが、屋敷に置かれた生活用品のすべてだった。
すべてを運び出され、リフォームもされない状態で放置された、がらんどうの大きな屋敷。僅かな生活用品のみが、少しだけ残った人間性か。
この広間を支配しているのは、道化師の衣装……。
バットマンは当然のごとく、彼女を拘束した。
――しようとした。もちろん、紳士的に。
その時ハーリーンは、床に直に置かれた小型冷蔵庫の前にしゃがんで、中からプリンを取り出したところだった。
キャリーバックの模様の幼さも相まって、冷蔵庫の中身はほとんどがプリンか果物であることは、プライベートでは女がさして賢くないことを現しているかのようだった。
もしくは、ジョーカーに出会ったことで、幼稚さを抑えなくなったのか。
バットマンはスプーンを咥えたハーリーンに、進み出て、こう言った。
「チャンスをやる。自首をしろ。神経ガスとジョーカーは何処だ」
ハーリーンは振り向いて、ぽかんとした。口からスプーンが落ちた。
乾きかけた金髪が肩に流れ落ち、幼ささえ残る大きな青い瞳は、何も映していないかのようだった。
バットマンが、もう一度、警告を繰り返そうとしたとき。
ハーリーンは、足を一閃させて蹴りを繰り出してきた。
思いのほか速いことよりも、バスローブの隙間から覗いた金髪の茂みに目を取られる。
胸元を焼く焦燥は、バットマンの正体が決して悟りを開いた仙人でないことを、自身に沁みるほど教えるものだ。
小鹿のような足を手の甲で受け止め、掴んで振り払った。
理性がないかのように甲高い声を上げて、再度飛び掛ってくる女に、バットマンは舌打ちしたい苛立たしさを感じる。
しかもジョーカーに手ほどきでも受けたのか、中々に強いのだ。
仕方なく腕を捕まえ、後ろ手に手錠で捕縛した。噛み付かれて、ベッドへと放る。
ハーリーンは、一瞬、怯んだ。
「犯す気……?」
「ワン・チャンスだ。神経ガスは、どこにある」
「誰が言うもんか! ハッ……殺すなら殺せば? できっこないけどね、このインポ野郎!」
激しく罵られ、バットマンは脅すつもりで圧し掛かった。
ハーリーンは胸や脚の間が肌蹴るのも構わず、蹴りを入れてくる。
バットマンは喉で唸りを上げて、ベッドへと力付くで押しつける。
「――っ」
「どこだ」
「正義の味方も、ただの男ってわけ?」
「どう思う」
見返してきた怯えた青い瞳に、バットマンはバスローブの帯を引っ張って取った。
怖がると思った。
そうしたら、すぐに言いそうな気がした。わからないが……。
「やればいい、やってみろよ!」
挑発されて、バットマンは目を細める。
己でも分かるほど、優しい手つきで、バスローブから零れ見えている乳房に手を当てた。
「あ……!」
女の慌てた声に、後ろ手の両手を掴む片手の力をバットマンは弱めてやった。
「どこだ」
しかし、少し体を捻る自由が出来たとたん、振り返りざま、ハーリーンに唾を吐きかけられ、バットマンは思わず殴ろうとした。
だが、できない。相手をもう捕縛しているのだから。
仕方なく――いや、望んでいたのか――乱暴に身体を横倒しにし乗り掛かる。
ハーリーンは奇声を上げて凄まじい勢いで暴れたが、両手を封じられて馬乗りされていれば、男女でなくても結果は歴然だった。
言いそうなのに言わない……エスカレートするのは時間の問題だったのだ。
たわわな乳房の先端を、固い手袋の指先で摘まむ。裸体が陸に上がった魚のように撥ねた。
快感からではなく、拒絶だと良く理解していた。そのことに、尚も動悸がした。
子供の頃、川で魚を手掴みしたときの、嫌がる自由な生き物を捕まえた、無邪気で暗い愉悦。
「言わなければ」
「言わなきゃ、何よ! レイプするって言うの? そんなこと出来っこない!」
「なぜ、そう思う? できないと?」
弾かれたように、ハーリーンがこちらを向く。
長い金髪が強風で靡いたかのように、翻った。
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