BH 4






 夢現で聴いた。

――お前は、助かる

――もう、来ない

――お前が、好きだった……初めて、見たときから、惹かれた

――だから、抱きたかった

――お前の……、恋人が羨ましい。

 唇に、触れるだけのキスが残された。

 私のことを、バットマンが……?








「え……何ていったの、プリンちゃん……?」

 今、ピエロの盛装をしたハーリーンの前には、ジョーカーがいる。

 ハーリーンに全てを捨てさせた、誰より憎くて、愛しい男。

「いや、だからさ、お前よく捕まってないよな。バットマン、お前のところに行かなかったのか?」

「――」

 ハーリーンの表情を読んだのだろう、ジョーカーの目がきらっと光った。

「来たんだな、そうだろ?」

「そのこと、何で?」

 何で知ってるんだ?

 バットマンが言ったのか?

 私にしたことも、まさか……そんな男じゃないと、なぜか思い込んでいたけれど、ありえない話じゃない。

 だが、ハーリーンの返事にきょとんとしたのはジョーカーのほうだった。

「何でって……お前、聞いてないの? バットマンから」

 嫌な予感がした。

「でも普通、分かるだろ?

お前それなりに身を隠しているのにさ、何で今回に限って、バットマンがお前の屋敷を捜し当てられたのか。

俺がお前を売ったんだよ。ちょっとバットマンの陰でやりたいことがあってなぁ」


 ………。


 ハーリーンは屋敷に帰ってくると、女ピエロの衣装を脱ぎ捨てた。二つ飾りの帽子を取ったので顔に長い金髪が流れ落ちる。

 下着姿になってバスルームに駆け込み、お湯を出して、顔に浴びせかける。

 唇にお湯が沁みた。切れて血が、と初めて気付く。

 ジョーカーはハーレイにとって、可愛いプリンちゃん。

 彼に怒るなんて考えもよらない。たとえ、私を殺したとしても……いや、もし彼に殺されるなら本望だ。敵に差し出されるよりは。

 さっき。いつもなら許せたジョーカーの言葉に、ハーリーンは怒った。

『バスタード! よくも抜け抜けと!』

 叫んで、山猫のように飛び掛った。

 ジョーカーはいつになくビックリしていたが、ハーリーンを避けなかったので、彼女を上にして椅子ごと後ろに引っ繰り返った。

 が、馬乗りにされたまま、可笑しそうにした。

『そうカッカすんなよ、俺がお前を売ったのは信じているからなんだ。

他の奴なら俺を売るが、お前は売らない。分かってたから、お前を売ったんだ』

『この……ッ』

 このまま殺してやりたい!

 ハーリーンはジョーカーの首根っこを掴んでいたが、男の言葉に再び怒りの炎が燃え上がった。

 猫よろしく、ハーリーンはジョーカーの唇に噛み付いた。

 ジョーカーは目を細めてそれを受け入れ、血を絡めてキスを返してくる。

 一瞬噛む力を緩めてしまったハーリーンを、ジョーカーは次に、手加減なしで突き飛ばした。

『何なんだ、カッカすんな、ハーレイ』

 肩をすくめるジョーカーに対し、ハーリーンは後ろに倒れ、情けなくて涙した。

『カッカって……! 私があんたのせいで、どんな目に遭ったか……ッ』

『え、バットマンが? バットマンが何するって言うんだ、あいつ正義の味方だぜ。

でも、待てよ?

もしかすると、もしかするかもな。あの蝙蝠に、何をされたんだ、ハニー?』

 バットマンのこととなると、ジョーカーの目が輝く。

 ハーリーンは口を噛み締め、近くに転がっていた手りゅう弾を拾い、ジョーカーに向かって投げつけた。

『死んじまえ!』

『うわっ!』

 ジョーカーが驚いている。それはそうか、手りゅう弾は、ピンを抜いたのだから。

 後ろで爆発音を聞き、爆風を受けながら、ハーリーンは身を翻して部屋から出て行った。

 ジョーカーがこんなことで死ぬはずないが、死んでもいい、とさえ思っていた。

 ――今度のことは、いくらなんでも、ひどすぎる。

 または、バットマンがあんなことをしなければ、許せたのだろうか。

 そのまま屋敷に帰って来て、化粧を落とすのもそこそこに、ハーリーンはシャワーのコックを捻った。

 熱いお湯を頭に受けながら、込み上げて来る嗚咽を、やっと解放する。

 でも、愛することをやめられないのだ、私は。

 これこそが洗脳か。憎しみもまた、深まるだけなのにどうにもできないから、せめて明るく振舞うしかない。

 傷つくことがないと見せかける、バカなふりだって、プライドのためとはいえ結構疲れるのに。

 天蓋付のベッドに身を投げて、どれくらい経っただろう。

 部屋の中の影が動いた気がして、顔を挙げ、焦点を合わせる。

「バットマン……」

 闇に溶け込む男の、唯一覗いた形の良い顎を見つけ、ハーリーンが呟く。

 そういえば、私が隠れ家を変えなかったのはどうしてだろう。

 バットマンがまた来るかも知れないのに?  いつものように、考えが至らなかった……本当にそれだけ?

 いや、この男は来ないといえば来ないはず、だった。

 でも、もうハーリーンは怖くはなかった。今は自暴自棄の気持ちにも、なっていた。

 ハーリーンはシーツから出て、己が素裸だと気付いた。

 今更だが、全裸を晒す気になれなくて、シーツを身体に巻きつけて、起き出す。

「御節介なんだね、自殺してないか、様子見?」

「ジョーカーは?」

「さあね、怪我くらいしたかも。手りゅう弾を投げつけてやったんだから。……生きてるだろうけど」

 ハーリーンが近づくと、バットマンは何と、闇の中へ身を引いた。

 ハーリーンは近づくのをやめ、まじまじと眺めた。

「ジョーカーはお前のことばかり……。

ずっとそばにいたのは私だけど、絶対に敵わないんだよね。

お前が現れてからずっと、あいつ、お前のことだけしか考えなかった。

私のこと、可愛がってくれていたのに。

……だから、余計に憎かった」

 手を伸ばしながら近づくと、蝙蝠は今度は逃げなかった。

 筋肉を模した甲冑に触れ、ハーリーンは少し驚いた。

「濡れてる。雨が降っていたのは一時間前だよ。……ずっと、外に?」

 どうして?

 私を見ていたのか?






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